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第十二話 『世界からの孤立』 ◆若葉

last update Veröffentlichungsdatum: 30.10.2026 08:07:40

 前髪を掴まれたまま、若葉は母を見上げた。

「……何、その顔。まさか、また辞めるつもりなん?」

「ち、違……」

 違う、と言い切れなかった。幸吉へ行けば、ルナに会う。母が憎み続けてきた海老原幸大の息子に。

「けど、明日はちょっと……行けるか分からへん」

「なんで。怪我でもしたん?」

「そうやなくて……」

 母の手に力がこもる。痛みに目をつむった。ルナに父親の名前を聞いたと話せば、海老原家の店で働いていたことまで知られてしまう。彼を好きになりかけていることなど、絶対に言えない。

「それとも何。また何か失敗して、辞めさせられそうなん」

「お店の人は、親切で……」

「ほな、やっぱりあんたのせいやないの」

 母が髪を放すと、若葉はそのままゴミ袋の山に崩れ落ちた。頭を押さえたまま、しばらく起き上がれなかった。

「あたしは今からまた働きに行くんやで。あんたが仕事辞めたら、今月の生活費、誰が出すん。ええ加減にして」

「朝の清掃は続けます」

「それだけやった
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  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   第十四話 『嫌いにならせて』 ◆若葉

     ――僕が、なんとかするよ。  ルナの言葉を、若葉はうまく受け止められなかった。薬の袋を握ったまま、彼を見上げる。 「……でも、私」 「まず、横になれるところへ行こう。といっても、心当たりは一つしかないんだけど」  ルナは少しかがみ、若葉と目を合わせた。 「僕、店の奥に住んでるんだ。バアちゃんも住んでるけど、生活する場所は分かれててね。バアちゃんのほうに使ってない部屋があるから、そこで若葉さんが休めるように僕から話すよ。もちろん、若葉さんがよければだけど」 「幸子さんにまで……そんなん、迷惑を」  昨日、勝手に辞めると言ったばかりだ。しかも幸子は、海老原幸大の母親。その家にまで上がり込むなんて。  けれど、ほかに行ける場所は思い浮かばなかった。  そのとき足元がふらつき、ルナが若葉の腕を支え直した。 「危ない。大丈夫?」  ルナの腕に力がこもる。  ここで立ち往生するほど、かえって彼を困らせてしまう。  若葉は観念したように口を開いた。 「……少しだけ、お世話になってもええですか」  ようやくそう言うと、ルナはうなずき、スマートフォンを取り出した。 +   +   +  タクシーの中で解熱剤を飲んだ。やがて時計修理マロンの前に着く。ルナに案内され、若葉は店の裏口から中へ入った。そこはルナの説明どおり居住スペースになっていて、表がマロンであることを忘れそうなほど、ごく普通の家の内装だった。  ルナに続いて廊下を進むと、床がフローリングからカーペットに変わった。ルナが振り返り、「フローリングが僕のスペース。こっちのカーペットが、バアちゃんの住んでるところ。分かりやすいでしょ」と笑った。  ちょうどそのとき、幸子が奥の部屋から出てきた。 「若葉ちゃん!」  心配そうに眉を下げる幸子から、若葉は目をそらした。 「心配したのよ。やっぱり顔色が良くないわね。こっちよ。ゆっくりでいいから」 「あの、すみません。昨日、急に辞めるなんて言うて……」 「その話は、元気になってから聞かせて。まずは休

  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   第十三話 『僕が、』 ◆ルナ

     返ってきたのは、若葉の浅い息遣いだけだった。明らかに様子がおかしい。  受話口の向こうから、電車の到着を知らせる放送がかすかに聞こえた。 「若葉さん、もしかして駅にいる? マロンの近くの駅?」 『……はい』 「商店街側の出口?」 『そこの……ベンチに……』 「分かった。動かないで。今行くから」  ルナは作業台の時計を保管用のケースへ戻し、マロンの扉に外出中の札を掛けた。店の脇から自転車を引っ張り出す。とにかく急がなければ。走りながら、頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。  駅手前の駐輪場に自転車を停め、電話で聞いた出口へ急いだ。ベンチの端に身を縮める若葉がいた。上着も着ず、両手で二の腕を抱えている。 「若葉さん!」  駆け寄って顔を覗き込む。呼びかけても、彼女はすぐには顔を上げなかった。 「……ルナさん」  ようやくこちらを見た目は潤み、頬だけが赤い。ルナは上着を脱ぎ、若葉の肩へそっと掛けた。 「よかった。見つかった」 「すみません。私、幸吉……」 「うん、聞いた。でも、その話はあとで。それより、若葉さん、熱があるの?」 「はい……」  若葉は立とうとしたが、途中で膝が折れた。ルナはとっさに腕を支える。薄い袖越しにも、体の熱が伝わってきた。 「若葉さん、病院へ行こう。一緒に行くから」 「せやけど、お金……」 「僕が出す。今は気にしないで。まず診てもらわないと」  若葉はうつむいた。ルナは支える腕の力を緩めず、返事を待った。やがて、彼女が小さくうなずく。  スマートフォンで近くの内科を調べ、受診できることを確認してからタクシーを呼んだ。待つ間、ベンチに座った若葉は、借りた上着の襟元を握りしめていた。 「……すみません。急に辞めるって……言うたのに、また迷惑――」 「関係ないよ。電話で様子がおかしかったから、心配になっただけ。会えてよかった」  そう答えると、若葉は上着に顔を埋めた。肩が何度か震えたが、咳なのか泣いているのかは分からない。ルナは何も尋ねず、隣に座って

  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   ◇11月連載のお知らせ

    ― 11月の連載予定日 ―(曜日)日・火・水・土 ●午後21時07分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。月・木・金曜はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ

  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   第十二話 『世界からの孤立』 ◆若葉

     前髪を掴まれたまま、若葉は母を見上げた。 「……何、その顔。まさか、また辞めるつもりなん?」 「ち、違……」  違う、と言い切れなかった。幸吉へ行けば、ルナに会う。母が憎み続けてきた海老原幸大の息子に。 「けど、明日はちょっと……行けるか分からへん」 「なんで。怪我でもしたん?」 「そうやなくて……」  母の手に力がこもる。痛みに目をつむった。ルナに父親の名前を聞いたと話せば、海老原家の店で働いていたことまで知られてしまう。彼を好きになりかけていることなど、絶対に言えない。 「それとも何。また何か失敗して、辞めさせられそうなん」 「お店の人は、親切で……」 「ほな、やっぱりあんたのせいやないの」  母が髪を放すと、若葉はそのままゴミ袋の山に崩れ落ちた。頭を押さえたまま、しばらく起き上がれなかった。 「あたしは今からまた働きに行くんやで。あんたが仕事辞めたら、今月の生活費、誰が出すん。ええ加減にして」 「朝の清掃は続けます」 「それだけやったら足らんから、焼き肉屋にも行っとったんやろ」  言い返せなかった。焼き肉屋ではなく、焼き鳥屋だ。そんな訂正をする権利すらない気がした。実際、母の言うとおり、清掃の収入だけでは暮らせるほどのお金を家に入れられない。  母は三面鏡のそばからスマートフォンを取り、求人画面を突きつけた。風俗店の体験入店について書かれている。 「あんた、前にキャバクラやらせても無理やったな。でも、これやったら稼げるやろ。明日、行ってき」 「……そんなん、私にできるか分からへん」 「やる前から何言うとるん。まず体験して、それから決めたらええ」  初対面の人とまともに話すことさえ難しい自分に、画面にある仕事が務まるとは思えなかった。だが断れば、今夜からどうやって暮らすつもりかと母に問われる。  若葉はゴミ袋の山から起き上がった。そのとき、母の足の爪を彩るペディキュアが目に入り、きれいな色だと思った。こんな古びた家の床を歩かされるのが、かわいそうになるほどに。 「……一回、行ってみる」  自分の声とは思えないほど小さかった。それ

  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   第十一話 『知った先の、行き止まり』 ◆若葉

     昨夜、若葉は、明日こそ幸吉へ行く前にルナに父親の名前を聞こうと決めた。それなのに、早朝の清掃の仕事を終えても、時計修理マロンへ向かうことができなかった。行こうとすると、膝が震えて改札をくぐれない。結局、幸吉へ行く時間になってしまった。 幸子の腰の具合も悪くなく、開店準備は順調に進んだ。その日の仕事も無事に終え、若葉はエプロンを返して、幸吉を後にした。 ――帰りこそ、ちゃんとルナさんに聞かなあかん。 隣の時計修理マロンまでは、たった数歩だ。尾木の家から腕時計を持ち出して走った距離のほうが、何倍も長い。それに比べれば、たやすいことのはずだ。 マロンの前に立つ。ガラス戸に映った自分の顔があまりにもこわばっていて、若葉は一度だけ深く息を吐いた。 ――ぜんぶ、海老原のせいで……! 母の声が頭にこだまする。それをかき消すように、ぎゅっと目をつむってドアを開けた。 目を開けると、ルナが作業台から顔を上げていた。「若葉さん。お疲れさま」 ルナのやさしい声が耳に入るなり、心臓がうるさいほど高鳴った。これから聞こうとしていることが怖いのか、彼を慕っているからなのか。それとも、そのどちらもなのか。もう分からなくなっていた。「はい。あの、お仕事中にすみません」 汗ばんだ手を握り直し、若葉は言った。「うん、大丈夫。ちょうど、いったん手を止めようと思ってたから」 ルナは片目にはめていたキズ見を外した。作業台には、小さな腕時計と、取り外した部品が皿の上に並んでいる。若葉の知らない誰かが、この人の腕を頼って預けた時計だ。 ルナは部品の入った皿を作業台の奥へ寄せ、若葉のほうを向いた。「昨日は、遅くまでありがとう。バアちゃんも、若葉さんがいて助かったって言ってたよ」「私のほうこそ……。急に残りたいなんて言うてしもうて」「嬉しかったよ。僕一人だったら、きっと手が回らなかった」 若葉は彼の手を見た。昨夜、焼き台へ皿を渡したとき、指先が触れた。たったそれだけのことを、朝の清掃のあいだも何度も思い出していた。 &helli

  • インダイヤル―母を捨てた男の息子に、愛されて―   第十話 『たぶん、好き』 ◆若葉

     言ってしまった。  手伝いは開店までという約束だったのに、若葉はエプロンを外さず、ルナを見つめていた。客がいる。これまでのように、失敗しても店の内側だけで済むわけではない。 「若葉さん……嬉しいけど、大丈夫? 営業中の店は、あまり得意じゃないって言ってたから――」 「そ、そうやけど……でも、もっと幸吉のこと、知ってみたいと思ったんです」  幸吉のことを知りたい。もっと、できることを増やしたい。けれど、自分が知りたいのは、本当に幸吉のことだけなのか。声に出してみても、若葉は自分の気持ちを整理できなかった。 「そっか。……うん。じゃあ、洗い物と、使う皿の補充をお願いできる? 注文は僕が聞くから、無理にお客さんと話さなくても大丈夫だからね」 「は、はい。頑張ります」  ルナが客の方へ向き直った。若葉は裏へ回り、乾いた小皿をルナが取りやすい場所に並べる。  客の話し声が耳に届くだけでも落ち着かないが、今することは分かっていた。  ルナが焼き台に串を並べる。炭を動かしたときの熱を、若葉はまだ手の甲に覚えていた。あの火で焼き鳥を焼いているのだと思うと、つい彼の手元を見てしまう。 「さっちゃん、帰ってきても店に立つつもりじゃないだろうな」 「診察が終わって帰ってきても、休んでもらうつもりですよ」  ルナの答えに、男性客がうなずいた。  若葉が洗った小皿を拭き、再びルナの近くへ置いた瞬間、その客と目が合った。 「そっちのお姉さんは? 初めて見るな。ついにルナ坊にも彼女ができたか?」 「えっ……」  若葉は皿を持ったまま動けなくなった。違います、と言えばいい。それだけなのに、声が出ない。 「はは、違う違う。そういうんじゃないよ。最近、幸吉を手伝ってくれてる若葉さん」  ルナがいつもの調子で答えると、客は「真面目に答えることねぇだろう」と笑い、砂肝を注文した。ルナもすぐに焼き台へ戻る。 「びっくりした……」  誰にも聞こえないほど小さな独り言がこぼれる。  ルナにとって、若葉が彼女などではないのは本当だ。なのに、拭き終えた皿を置くまで、胸の奥が妙に苦しかった。  引き戸が開き、二人目の客が入ってきた。若葉は反射的に肩をすくめる。ルナがカウンターへ案内し、注文を聞いてくれている間に、洗い物を終わら

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